瞑想が宗教と混同される…というか、宗教と結びついたものと思われる…のは、
前回書いたように、「修行者が瞑想を日課としているようなイメージ」だけでなく、
「わからない部分が多い」ということも関係していると思うのです。
人はぜんぜん理解し得ないような考え方に出会ったとき「あれは宗教のようだ」ということがあります。論理的ではないというニュアンスも含みますね。
瞑想のメカニズムや瞑想しているときの状態について、またはなぜ瞑想をするのか?が理解しにくいので、「宗教ぽい」と感じたりするのかもしれません。
説明を求めても明確な答えが得られない…という感じもあるのかもしれません。
ただ、宗教は、わからない部分があったとしても何かを「信じる」ことが前提となっているのに対し、
瞑想は(特に超越瞑想の場合は)、何かを信じる必要はありません。
そこは宗教とは違うところかなと思います。
ただ、「やってみよう」と決めるときに、ほんの少しかもしれませんが、「えいっ」と飛び込む勇気が必要です。
新しいことをやるときはみんなそうですけど、だいたいのことは想像できますよね、やるとどんな感じか…
瞑想を始めるときに、瞑想している状態がどんなものか想像しにくいのも、ちょっと飛び込むのに勇気がいるのかな?と思います。
では、なぜその勇気が生まれるのでしょう?
それは「直感」です。
「なんかよさそう」という感覚です。
ご自身の直感を信じるタイプの方は、わりと早めに「やろう」と決められますが、そうでない方はいろいろ考えて迷うことがあります。
「宗教みたい」というとき、ネガティブなニュアンスが加わるのは日本独特かもしれませんね。
「宗教」は、もともとは人の心を豊かにするもののはずなのに…。