母方の祖母はとても信心深い人でした。
とても頭脳明晰な人でボケることもなく90歳まで長寿を全うしました。
小学生のころ、祖母の家のそばに住んでいたので、朝夕に祖母が仏壇に向かってお経をあげるのをよく見ていましたし、一緒にお経をあげたりもしました。
ことあるごとに、「なんまんだぶつと言うんやで〜」と言われて育ったので、「南無阿弥陀仏」という言葉は、何かのときには自然と出てくる感じでした。
旅行に行くとき、乗り物に乗るとき、試験の時…などなど。
祖母が仏様の教えをどれぐらい「学んだ」と言えたのか、今でもよくわかりませんし、お経の意味をどこまで理解していたのかもわかりませんが、仏壇と仏様と阿弥陀さんは大切なものというのは子どもの私にも伝わっていました。
きれいなお花を仏壇にあげること、いただきものは必ず仏壇に、祖母の家を訪ねたらまず仏壇にご挨拶…などなど。
これらは信仰というよりも習慣として私の中に根付いたような気がします。
目に見えないものへの敬意という感じで、私は宗教というものを漠然と身近に感じていたようです。
20代にTMを始めてもそれは特に変わることなく、またヴェーダの知識に徐々に興味を持つようになっても祖母が私に伝えてくれた「仏様」や「阿弥陀さん」への敬意は変化はなかったような気がします。
祖母は毎日仏壇に向かい、仏さん、阿弥陀さんととても近い距離で生きていた人でしたが、とても優しく穏やかな反面、物事に対する見方がはっきりしていて、激しいところもある人でした。
私は20代の頃から関東で生活していたので祖母に会うのは稀でしたが、祖母は亡くなる年にも、いろんなことについて腹を立てたり嘆いたりしていたのを覚えています。
祖母の子どもたちはそんな祖母をなだめたり、身体に悪いからそんなことは考えないほうがいいと言ったりしていました。
祖母のことは好きだったし、私にはとても優しかったけど、私の中には漠然とした疑問がありました。
それは、仏壇に向かっている祖母と、いろんなことに腹を立てている祖母とのギャップだったのかもしれないと今になって思います。
「仏さんと仲良しで信心深いおばあちゃんが、なんであんなに怒るのか?」が私にはよくわからなかったのかもしれません。
祖母が亡くなってから20年近く経って、私はTMのインストラクターになりました。
なので、私は祖母にTMを教えることはかないませんでした。
TMのインストラクターになって、今ははっきりとわかるのですが
信仰心だけではなかなか心は穏やかにならないこと、心の平安や幸福感を得るのは、心のストレスや緊張を自然に取り除くTM瞑想がとても有効であること。。。
祖母にTMをやってもらいたかった…という思いはまだありますが、より多くの人たちにTMを教えることで、幼い頃に信仰というものの豊かさを教えてくれた祖母も喜んでくれるのではないかなぁと思っています。